2020年2月12日 | 心と潜在意識 |
おめでとうございます。
先日、小学生の頃からの友人が結婚したので、2次会から参加させていただきました。
学生時代というと、いろいろ思うことがあります。
小学生の頃は特段嫌な記憶はないのですが、中学時代は僕の中ではまさに暗黒時代。
人間の黒い部分がとても嫌になった記憶です。
特に何が嫌だったのかというと、
誰かと仲良くした時に、誰かの敵になってしまうこと。
例えば某F君とは仲が悪かった某Tさんの間にはいってしまうと
「あなたはどちらの味方なの?」
と問われてしまう。
つまり相手と話すだけで攻撃されてしまうのです。
「あいつと話すな」
「なんであいつと仲良くしてんだよ」
と巻き込まれてしまうのです。
(基本的には「あいつ」に対してからの妬みや嫉みなのです)
これは恋愛でも同じことが起きて、誰かに好かれてしまうと、他の人から嫉妬などの攻撃をされてしまうのです。
「なんで思い通りにならないことをこちらに押し付けてくるの?みんな死ねばいいのに」となっていました笑
その頃の僕は
「誰からも好かれないといけない」
「相手の期待に応えないといけない」
という偏った思い込みの中で生きていました。
表面では誰からの好意も受け取らない態度や、
「相手が攻撃してくるならこちらも徹底的に攻撃してやる」
という考え方になっていき、
本当は
「みんなに好かれたい」
という想いとは裏腹に自分の気持ちを抑圧して生きていました。
それが強さだと思い込んでたので苦しかったです。
相手に好かれるか好かれないかは相手の問題でそれをコントロールすることは不可能
ということに深く気づいたのは最近のことです。
この世の中では矛盾した価値観で生きた方が生きやすい。
「相手に好かれたいけど、好かれない時もある」
そんな自分をゆるすでいいのです。
相手が嫌がっているのはこちらの行動や言動に対して、自分の理想とは違うことで悲しかったり、劣等感を感じてしまう。
それを感じたくないので、怒ったり、嫉妬したり、攻撃してくるのです。
いじめや妬みや嫉み、学校で浮き出てくる問題は、親と子どもの問題と簡易的にいえばそうなのかもしれませんが、
自分の感情をどう処理していいのか、みんなわからないのだと思います。
子どもにとっての絶対的な存在である親でさえも、子どもの気持ちに寄り添う余裕がないと、子どもは外へ社会に対してうけとめてくれる誰かを探しているのかもしれません。
私も誰かを深く傷つけてしまったこともたくさんありますし、傷つけられたことも多いです。
そこに執着しても何も変わらないので、私は自分自身も、相手の存在も「ゆるす」ということを選びます。
(相手の行為「暴力や人格否定など」はゆるさなくてもいいということです)